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教会とPTSD

PTSDの人に言ってはならない言葉』というのが、あるらしい。

かつて軽度のPTSDと診断された時期がありましたが、どんなものかと読んでみると、言われたものばかりでした。


善意で言っているのでしょうが、こんな感じに陥ることはよくありそうです。
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回復のキッカケ

キッカケは教会に行ったことでした。
教会にはPTSDの専門家や、精神医療の専門家はいませんでしたが、「言ってはならない言葉」を読んでみると、案外教会で良かったかもと思えるフシがあります。


教会は精神医療の対応を、至上命題とはしてないかもしれません。
聖書を伝え、人と神の和解を促すのが主な目的で、存在意義でしょうか。


だから自分も教会では細かいことは伝えず、
「いろいろ困っていて、仕事を休んでいます。」とだけ伝えていました。


そのためか「言ってはならない言葉」を言われたことはなかったです。

牧師さんや一部の人には状況を話しましたが、自分を受け入れつつも具体的なアドバイスはなかったと思います。


なんとなく困っていることは、教会全体に伝わっていたので、ニコっとして「お祈りしていますよ。」とよく言われました。

傷つけられることを言われることもなく、定期的に人に囲まれてコミュニケーションを取り、声をかけ受け入れてもらった。安全な場所ができました。


これはPTSDの人にはすごく大きいらしいです。安全なはずの自宅も、家族に復帰をせかされたりで、意外とそうでもなかったのです。


そもそも教会の活動の中心は「PTSD治療」ではないので、聖書の話しを聞いたり、歌を歌ったりしてました。


「これって役に立つのか?」

と正直思いましたが、教会にいる時は、「暴力団みたいな人達」のことも、「軽度のPTSD」のことも忘れ、独特の雰囲気の中で、聖書のことを考える時間が長くなっていきました。



優先順位

聖書にこんな箇所があります。

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


生活を思い煩うよりも、まず神を求めることを優先するよう記されてました。


聖書は自分の問題と直接関係ないですし、PTSDのことも書いてません。


しかし全ての供給が神から来るなら、一見全く無関係に見えても神に立ち返る方が、解決に近いというのはあるのかもしれません。


このの頃に、問題が解決へ向かって行きました。
自分の裁量を超えた、社会的に権力ある集団の悪意と対峙するような場合、神に祈るしかなかったというのもありますが、ここが分岐点となりました。


結果的に試行錯誤したら、この方法が一番よかったという感じで、聖書が正しいかどうかは、人生を使って試してみるしかないのかもしれません。



■振り返る


PTSDの人に言ってはいけないことは言わずに受け入れ、親切心を持って寄り添い、聖書に目を向かせる。

昔ながらの教会活動ですが、ある人々にとっては役に立つものだと思う。


今は何食わぬ顔で、普通の社会人として暮らしているが、ホームレスと間違われた時期もあり、当時通った教会は、よくそんな自分を受け入れ、親切に接してくれたと思う。


10年前の自分みたいなPTSDの人が教会にやって来たら、自分はちゃんと受け入れることはできるだろうか?と振り返ってみた。


あまりちゃんとできる自信はないのですが、そうでありたいとは思います。