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クリスマス/看板/暗黙の空気

引きこもりについての記事を読んだ。一番つらい時期はクリスマスだそうです。
http://diamond.jp/articles/-/46208


やはり・・・・という印象。
そういう疎外感は、身に覚えがあります。
過去に監禁され殺されそうになったことがあり、その頃に同じ感覚を覚えました。
ちょうどクリスマスの時期でした。



当時クリスマスムードの華やかな渋谷を歩いた時、こういう楽しげな世界には二度と戻れないのだなと感じ、自分だけ別世界にいるような感覚に陥りました。
周囲との格差は孤立感を一層際立たせます。



教会の看板


数年前、教会の看板を変えようか・・・という話題が持ち上がりました。
駅にある教会案内の看板がだいぶ古臭くなってきたので、新しい今風なものに変えたらどうか?というのです。


若い女性教会員数名がスタッフとして、デザインを含めこの対応を任され、意見があったら出して下さいとアンケート用紙が配られました。


ここで一抹の不安が。
あまりにも華美なものになったらどうしようという不安。
当時感じたクリスマスムードと同じ雰囲気を出してしまわないだろうかという不安です。
あまりに今風で美しい看板は、本当に絶望している人を、かえって教会から遠ざけてしまうことはないだろうか。


苦難の中にいる人が、こちらの意図に反してその場に行く前に『自分はこの場に溶け込めるだろうか?』と、引け目を感じて躊躇してしまわないだろうかと思ったのです。


そこでアンケートに、
「看板はあまり華やかななものにはしないでほしい。絶望の中にいる人が、自分はその場にそぐわないと思い、来づらくなるといけないから。」
と書いて提出した。


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」
と聖書は招いていますが、看板から違うメッセージを受取られてしまわないか?思いました。


教会はちゃんとした人が集まっている場所
教会は輝いている人が集まっている場所



当時の自分を振り返れば、このメッセージを発している場に足を踏み入れることは、ムリだったと思う。
人生最悪の状態で、自分がそのような場所にふさわしくないことは、本人が一番よくわかる。
昔クリスマスの時期に感じたような疎外感の中に、敢えて身を置く愚を冒すのは避けたい。


幸せな家族やちゃんとした人たちの中に身を置き、周囲に微妙な空気を感じさせながら、
「来なければよかった。」と後ろめたさを感じる場には、自分だったら行かないと思う。


しかし神が招いているのは、実はそういう人ではないか?という疑問も残る。
昔の自分が近寄れないような場所になってないだろうか?という自問を、この時は感じました。


暗黙の空気

結果的に看板は今もそのまま。
やはり古臭い。あの時、新しくしとけばよかったかもと少し思います。


華美なものになるとも限らなかったし、アンケートは出さなくてもよかったかもしれません。
せっかく担当になった女性にも水を差してしまったかもしれない。


しかし自分はそちら側から来た人で、ホームレスではなかったが、間違われた時期はあります。
だから自戒の念を込めて、この暗黙のうちに伝わる空気に気を付けたい。




どの集団にも、明文化されていない暗黙の空気があると思う。
コトバにするまでもないほどの浸透しているせいなのか、言いにくい内容なのかはそれぞれだろうが、実はこちらの方がその集団の根底にある本質ように感じる。


そして人が感じ取るのもきっとこちらだと思う。


最初に通った教会はどこかあか抜けない印象で、世間から見て「弱い人」の姿も見受けられ、休職状態の自分がいてもクリスマスの頃に感じたような疎外感はなかった。


”ここはそういう場所だから、問題を抱えていても来ていいのか。”
という暗黙のWelcomeを感じ取った。


暗黙の入場制限を感じさせることなく、こんな風に格差を感じない雰囲気になっているといいなと思う。