ブログタイトル

クリスマス前の証し人

職場で証しをする機会が突然やってきた。



向かいの席の女性がミッションスクール出身らしく、急に「ミサに行きたい。」と言い出したのだ。
クリスマスシーズンなので、学生時代の楽しかった教会の雰囲気を味わいたくなったらしい。


そこからカトリックプロテスタントの話題になり、教会の話題に。

二人でシスターの話しとか、教会の話しをしていると、同じ職場の若者が


「イヤ、自分は宗教とか絶対信じないですね。」と言ってきたので、

自分もこの職場に来た頃、「宗教とか絶対あり得ない。」と話し、取締役の人と盛り上がったと話した。


それが今の自分のイメージとそぐわず、かなり衝撃的だったようで、


「大人になってから信じたんですか?」
「子供の頃からじゃなかったんですか?」
「なんで信じたんですか?」
「何があったんですか?」
「どうやって信じるようになったんですか?」
と質問攻めにされた。




信じる過程で何があったかを話す。それは「証し」ではないか。


しかし一瞬、どこまで話すべきか? と頭で計算してしまった。
若い頃、裏社会の人達に監禁された話しはするべきか? PTSDの話は? どこまで話しても大丈夫か? 
たぶん自分の立場を考えた。


そんな時に職場の電話が鳴り、「神様いたから。人生いろいろだ。」という簡単な回答で終了してしまった。


■会話? 組手?

教会での証しは慣れてきている。事前に準備ができるし、5分とか自分の時間を与えられ、同じ価値観を持った信徒の中で話す。


しかし現実には予告もなしに、ある日突然その機会はやってくる。


教会の証しは「講演型」であるのに対し、現実の証しは「会話型」。
空手に例えるなら「型」と「組手」くらい違いがあるのだ(?)。


そんな中で与えられた機会に主を証ししていくことは、主の霊が共にないと難しいと感じている。
やるべきは「述べ伝えること」。後はその人に主の霊が働くかどうか。神と人との共同作業なのだなと改めて感じる。


聖書にも見てしまった以上、そのことを話すしかない(使徒の働き 4章20節)とある。
確かに "聖書をよく理解してキリスト教を信じた" というより『見てしまった以上否定できない』という立場に近い。『扉を叩いたら開いてしまった』とも言える。
追い詰められた時に介入してきたのは、この神様だけだった。今後はもう少しちゃんとした証し人になれるよう願います。


これからクリスマスの時期には教会、キリストの話題になりやすい。
与えられた領域で、突然こんな状況になる人もいるかもしれない。
その方々の上にも、主の御手が共にありますように。