配慮
夏まつりの責任者が配慮をしてくれた。配慮をないがしろにするのも気が引ける。
こちらもある程度配慮をした方がいいような気もした。
会長は不参加を認めた場合、「なぜあの人だけ免除になるのか?」と周囲から非難を受けることを恐れているのだと思う。
確かにそれは会長が気の毒である。
「とりあえず顔を出してほしい。」と言われたので、部分的に手伝うことにした。
しかし、問題があった。最初は力仕事を手伝おうと思っていたのだが、準備も片づけも日曜日なのだ。主日礼拝より夏まつりを優先することはできない。そのことを伝えた。
そのため、お祭り当日の模擬店を手伝うことになった。
会長からは「スケジュールにはフルで名前を載せざるを得ない。日曜日は急きょ用事ができたと言って休んでくれ。それは目をつぶる。」と言われた。
しかし、これはこれで問題があった。
お祭りのレイアウトを見ると、自分のお店の前で盆踊りがあり、神輿も置いてある。
かなり凹んだ。配慮してくれた責任者や会長を責めるわけにもいかないが、相当凹んだ。
もう祈るしかない。
信仰と夏まつり
この件をいろいろなクリスチャンや牧師に相談した。
「毅然とした態度で断るべき。」という人もいれば、
「相手との良い関係を切らないこと。福音を知らないのだから、愛を持って接し、イエス様を伝えた方が良い。」という人もいた。
正解はないのかもしれないが、最終的に「主に誠実であること。」「町の人との良い関係を心がけること。」が聖書に沿っているのではないかという導きを感じた。
祈りの中で与えられたみことばは、コリント第一 7章23節。
あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
優先順位というものがあるから、人の指示に盲目的に従うべきではないということ。
しかし、「汝の隣人を愛せよ」というみことばが無効になるわけではないから、失礼な態度はとらないこと。
このことのためにものすごく祈ったが、その中で久々に "神の声" を感じた。
会長が変節して、「やることはやってもらわなくちゃ困る。」と言いだした日のこと。
孤立無援で理解者もない状態。仕方なく、目を閉じて心の中で祈ったが、暫くすると
『わたしがやる』
という声が聞こえた。内側から。割とハッキリと。
クリスチャンをやっていて、神の促しを感じることはあるが、ここまでハッキリしたものは滅多にない。
以前も同じことが何度かあったので、もしかすると神の声?という期待を抱いたが、状況は何も変わらず、祭りの当日が近づいてきた。
結局は夏まつりに参加しなくちゃならない。神輿や盆踊りを盛り上げる「間接支援」をすることには変わりない。
キリストが今の自分の姿を見たらどう思うだろう?と考えた。
自分はイエスの名を否んでしまっているのではないか?
イエスが処刑された日、ペテロはなんでイエスを知らないと3度も言ったのだろう?
と思っていたが、いつの間にか自分も同じ状況になっている。
結局当日、どさくさに紛れていろいろ手伝わされてしまわないだろうか。周囲の雰囲気に流されず、それを断ることはできるか?
『わたしがやる』
と感じた声は、単に気のせいだったのかと葛藤しながら、当日を迎えた。