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病気と祈り

聖書には信じる者のしるしとして、病人に手を置けばいやされるとある。
(マルコ16章17節〜18節)


しかし実際に病人に手を置いて祈ったことは殆どない。
家で人の病気のために祈ることはあるが。


信じているのにそうしない理由は、「変な人だと思われたくない」という意識があるのだと思う。
また祈ったのに癒されなかったら・・・という恐れも。


いづれも信じる気持ちよりも、人の目を恐れる気持ちが勝っているということかもしれない。



■癒しの祈りは牧師の仕事?

教会に病気の人が来ると癒しの祈りをしたりするが、それは牧師とか教会の役員の仕事?だと思っていた。


しかし聖書には「信じる人々には・・・」と書いてあり、「牧師が」とか 「長老が」とは特に書かれていない。


つまり自分が手を置いて祈ってもいいのである。



その日は突然やってきた。


教会の昼食の後、癒しの祈りをするから、一緒に手を置いて祈るよう牧師さんから言われた。


足が痛くて曲がらないから祈ってほしいという方が来た。仮に「Aさん」としておこう。
Aさんは50〜60代くらいの男性。生活困窮者の方らしく、十分な治療を受けていないようだ。


この時は4人で祈った。自分も手を置いて祈った。


■ルステラ

祈りが終わって立ち去ろうとすると、Aさんが「治った」と言い出した。
痛みは少しあるけど曲がるという。洋式トイレで座るのも一苦労だったというが、ぐいぐい膝を曲げだした。


「感謝します。」というキリスト者にありがちな、控えめな喜び方ではなく、
「すげー。完全に曲がる。」 というざっくばらんな物言いから、社交辞令ではない感じが伝わってきた。


祈りで癒された話しは耳にすることもあるが、目の前で人が癒されたのは、実は初めて。


この時、ある証しを思い出した。南米に宣教旅行へ行った牧師さんの話しである。
南米の集会にメッセンジャーとして招かれたそうだが、なぜか「癒しの働き人」と宣伝されてしまったそうだ。
その方は別に「癒しの祈り」を専門にしているわけではない。


しかも当時、南米では原因不明の熱病が流行っていて、赤ちゃんが次々に病で死んでいるが、満足な治療が受けられない状況。赤ん坊を抱いた母親が長蛇の列を作ったという。


その牧師さんは最初、「大変なことになった。」と思ったようだが、信仰を持ってイエスの御名前によって癒しを祈った。

暫くすると一人の女性が「熱が下がった」と叫び、続いて次々と癒しが起こり、赤ん坊の熱が下がっていったという。


その時の様子をこう語っていた。
赤ん坊に信仰はないはずだが、治療を受けることができない貧しい母親たちの信仰と、祈りによって癒しが起きた。
この時、この場所に神の霊が臨んでいたから癒しが起きた。
母親たちの切実さを見たイエス様が癒しを行った。自分が癒したわけではない。


Aさんの癒しの時も、同じようなものを感じた。十分な治療を受けられない状況。
神の癒しを求める信仰。目の前で癒されたけれど、自分が癒したのではない。


使徒の働き14章には、ルステラという場所で、パウロが足の悪い人を癒した話しがあるが、その人に「いやされる信仰があるのを見て・・・」とあるから、神を求める切実さは大事だなと思う。
もちろん祈り手側も。


その後、Aさんはどうなったか?
神の癒しを目の当りにして嬉しかったのだが、自分の中には「もしかしてAさんはその時は癒された気分になっただけではないか?」という疑いが、少し残っていた。


次の週、教会に行くとAさんが来ていたが、この日は自転車で来ていた。


ハレルヤ。
再び癒しを見ることができますように。