『お気に入りの聖句』というものがあります。
最初は読んで感じなかったのに、後からジワジワと響いてくる聖句もあります。
以下はそんな聖句です。
主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。
初めてこの御言葉を読んだ時は単純に、神は私たちを守ってくれるんだなと思っていましたが、しかしよく読むと「敵は来る」という事実が浮かび上がる。
この箇所(申命記)は 神の命令をよく守ったらこんな風になるという文脈。
神の教えをちゃんと守ったのだから、
「あなたには敵は向かってこない。」
「あなたは一生安泰だ。」
と言って欲しいところだが、「敵は来る」「試練は来る」と書かれている。
さらに残念なことに敵は目の前まで来ると書かれている。
「あなたの目の前で」ということはそういうことだ。
戒め全部守ってる前提で書かれているけれど、結果そういうことに。
「目の前に来る前に、遠くにいるうちに敵を倒して欲しい。」
「問題が来ないようにして欲しい。」
と思いますが、なぜか敵、問題、試練は目の前まで来るらしい。
クリスチャンになってからのことを思い出すと、これは確かにその通りで否定できない。
15年以上昔のこと。
圧力団体から嫌がらせを受けた時期があった。
クリスチャンになれば問題が解決するかもと思っていたが、全く状況は変わらず。
但し、クリスチャンになってから「神の助け?」と感じることが起こるようにはなったことも事実。
最初は「ラッキー」と思っていたのですが、そんなことが繰り返し起きているうちに、
「これは偶然でなく神ではないか?」という感覚が芽生えてきた。
敵は向かってくる。
けれど目の前で敗走して、七つの道に逃げていく。
という展開を目にする機会が多くなった。
PTSDからの回復
実は圧力団体の嫌がらせよりも、自分の人生観が一番の問題だったかもしれない。20代前半の頃、監禁されて殺されそうになったことがあったが、圧力団体のことがキッカケでPTSDというカタチで問題が表面化してきた。
嫌がらせを受けると、監禁されて殺されそうになった時のことをリアルに思い出す。
「人間はある日突然殺される」という歪んだ人生観が体に染みついていたのだと思う。
しかし「目の前で敗走する敵」を毎日目にしているうち次第に
「敵は来るが、神の方が上。」という感覚が強くなってきた。
「今はひどい状況だけれど、神が共におられるなら、何が起きるかわからない」
という人生観の方が優勢になってきて、気が付くとPTSDの症状は出なくなっていました。
敵は何度も来たが、それも無意味ではなかった。
神は目の前の問題を消すことよりも、人生観を根底から変えるという選択をしたのかもしれない。
監禁された過去は消えないが、思い出しても恐怖の感覚は抜けていて、その感覚を将来にまで投影することはなくなった。
神が共にあるなら、敵は逃げ去るという感覚が優勢になったからだと思う。
人は「問題を解決したい」と願うが、神の側は「神が共にいる」と感じ取って欲しいという願いを持っているのではないか。
以前の記事で教会に受け入れられることがPTSDにとって良かったと書きましたが、神の手を直接感じたことが一番大きい。
iroiro-memo.hatenablog.com
この聖句を読むたびそう感じます。