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あり余るほどは・・・

ある牧師さんのメッセージの中で、印象に残るフレーズがあったのでメモ。


「神は必要を満たして下さる。」


これはクリスチャンならよく耳にするフレーズだ。牧師さんも困難の中を通り、ギリギリの状況で神が与えたとしか思えない出来事により助けられる姿を間近で見て来た。
だからこのフレーズにはアーメンです。


ただ、同じ出来事を別のフレーズで表現した一言がさらに興味深かった。


「神は必要を満たして下さる。…が、あり余るほどは与えない。」


このフレーズを聞いてなんとなく納得するクリスチャンは多いのではないか。
この表現を聞いた時、旧約聖書の 第一列王記 17章を思い出しました。


死のうとしているのです


預言者エリヤがツァレファテという町の門で一人のやもめに出会ったシーン。
空腹のエリヤは、水と一口のパンをこのやもめに求めたのだが、返ってきた答えは、一握りの粉とほんの少しの油があるだけだという悲惨なやもめの状況。


しかもこれから帰ってそれを調理し、息子とそれを食べた後に死のうとしているのだという。


そこでエリヤの口から出た言葉もまた想定外でした。
「恐れるな。まず私のためにパン菓子を作って持ってくるように。それからあなたと子どものために作りなさい。」


これから死のうとしている人間に向かって、「まず私のために菓子を作れ」とは。



さらにこう続けた。


イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」
※事前にここ2、3年間露も雨も降らないという預言があった。


驚くべきことに女性は、この通りすがりの預言者の言葉に従った。
エリヤと女性の家族は長い間それを食べた。神の言葉の通り、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかったという。


この箇所から神は必要を満たして下さる一面を見ると同時に、つぼの油が決して溢れることはなかったという一面も見ることができる。


必要は満たされた。しかし、あり余るほどは与えられることはなかったのだ。




この日の牧師さんはさきほどのフレーズの理由として、「あり余るほど与えられると、人の心は神から離れてしまうから。」と続けていた。
だからあり余るほど与えられないことも、神の恵みであると。


確かにその通りで、少し不足を感じるくらいで神から心が離れない状況がベストなのかなと思わされた。