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人の本質

最近、宗教改革についての講義を聞く機会があった。
当時の教会の状態を見ると、考えさせられることが多い。


印刷機ができるまでは聖書を独占していた。
聖書を民衆に解放するために翻訳して殺された人もいるようだ。
信徒に聖書を学ばせない方が、都合が良かったのかもしれない。
福音を宣べ伝えることよりも、神の国を知らせることよりも、自分達の体制や利権を守っているようにも見えて、昔も今も人の罪深さは変わらないのだなと改めて思う。


救いも独占していた時代もあった。法王に従がわなければ、救いはないという時代もあったらしい。
聖書には果たしてそう書いてあっただろうか。人間の欲は恐ろしい。


教会に異を唱える者は「異端」のレッテルを貼って追放したり、殺してしまう。
教会の邪魔者として殺された人が思いのほか多くて驚いた。
十字軍が同じクリスチャンも攻撃し殺害していたことも初めて知ったが、これは当時のカトリックの問題というより、人間の本質が出ている出来事のように感じる。


陰口でレッテル貼ったり多数派工作したりということは職場でもよく見るから、人の本質はこの時代と全く変わっていないのだなと思う。


自分に従わない者は許せないという人物が、聖書の中に多々出てくるが、それは現代社会でもあることだ。
クリスチャンの中でもこれが起きる可能性があると、肝に命じる必要があるのかもしれない。


法王至上主義、教会至上主義に異を唱えたのが宗教改革である。
講義していた牧師さんは最高権威について、法王ではなく、神父でもなく、教会でもなく、牧師でもないと断言していて、最高権威はあくまでも聖書と語っていた。


牧師がこれを断言するのもすごいと感じた。
しかしここがブレると、「キリストの体」としての教会から「宗教団体」になっていくのかもしれない。




歴史を見ていると、慎重な目線を養わなければと思わされた。