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主への?祈り

聖書の中に『主の祈り』というものがある。
クリスチャンなら誰でも知っている有名な個所だ。


主の祈り


天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。


最初聞いた時は難解だと思ったが、今は疑問もなく祈っていた。


しかし、これに疑問を呈した方がいた。


そもそも「主の祈り」とは日本語としておかしいのではないか?

『主への祈り』が正しいのではないか?

だって、神に捧げる祈りなんだから・・・



なるほど。そう来ましたか。
改めて読み直してみました。


弟子たちに祈り方を質問されたイエスが、こう祈りなさいと示したもの。
場面から考えると、主・イエスが示したから「主の祈り」という表現はあってそう。


内容もよく見てみる。




特に前半は、天の御国がこの地上に来て欲しいという内容で、神は地上に介入したいのかなと感じる内容。

後半は私たちを心配してくれている感じ。以下の3つを神が望んでいないことが伝わってくる。
私たちが窮することがないように。
裁かないように。
悪い方に足を向けないように。


よくよく読んでみると「私たちの思い通りになりますように。」という内容とは少し違うということ。
私たちの願いではなく、「主の願い」ともいうべき内容が込められている。
そういう意味でも「主の祈り」だ。


私たちの願いは無視ということではなく、この前の箇所で「求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、 」とある。
私たちは自分の願いが天に届くようにと祈ったりするが、既に神はご存知ということだ。



神も私たちの必要は満たされることを望んでいるからと諭していて、マタイの福音書6章33節にもそう続いている。

だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。



だから自分の願いよりも神の国を求めるように。逆説的だがそうすれば私たちの必要も満たされる。



礼拝に来始めた方は思いもよらないところを突いてくる。
主が示されたことについて吟味する良い機会となりました。