さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
(マタイの福音書25章19節)
知り合いが天に召された。
まだ50代前半であった。
裏社会に生きていた人だったが、クリスチャンになり神に仕えていた。
仮にSさんとしておく。
同じ建物で暮らしていた時期があったが、Sさんは経済的には苦しかったと思う。
ある日、礼拝の前に廊下であったので、挨拶をしてもう朝飯食べました? と聞くと、お金もないので、もう数日何も食べてないという。
主からの導きと受け止め断食をしていると言い出した。
そんな話しを聞いて、
「そうですか、じゃあ私は朝御飯を食べてきます。」とは言えないので、
では今から買ってきますから一緒に食べましょうと誘い、サンドイッチを渡すと、
「ありがとうございます。」と喜んでくれて一緒に食事をした。
食事の後、Sさんは伝道師だったので、祝福の祈りをしてくれた。
そんな風に同じような境遇で、同じ方向を目指して歩いていたが、教会の移転と共に、それぞれ別々の道を歩くことになった。
その方とはそれからあまり連絡を取ることもなかったが、被災地でアルバイトと支援活動をしながら暮らしていると伝え聞いた。
おそらく経済的には依然として苦しかったと想像できる。
自分はというと、サラリーマンとして働き、その後結婚し、家族が与えられ、仕事も与えられて、経済的に祝福され、少し出世もして世間一般で言うところの
「幸せな中流家庭(昭和風?)」みたいな暮らしをしていた。
当時に比べたら、ずいぶん状況は変わったと思う。
15年が過ぎて、お互い別の場所を歩んでいると感じた。
タラント
Sさんのことを思い出しながら、聖書のタラントの話しが頭をよぎった。
主人(神)がしもべ(人間)にタラント(お金の単位)を渡して旅に出た。
ある人には1タラント。
ある人には5タラント。
ある人には10タラント。
それぞれ人はそのお金を使って商売をしたりした。
ある人は10タラントをさらに増やした。増やした額は人によって違った。
そして主人が帰って来て、清算をした。
あるしもべが
「私は商売をして、タラントをこんなに増やしました。」と報告すると、主人(神)は、
「よくやった。よいしもべだ。」と喜んだ。
しかし、一人だけ「何もせず穴に埋めておいた。」というしもべがいた。
主人に対して、あなたは信頼できないから何もせず返すことにしたと言い出す。
それを聞いた主人はこのしもべのタラントを取り上げ、別のしもべに渡した。
すごくざっくりとだがこんな内容。
タラントというお金は譬えであって、人に与えられたの能力とか、時間とか、経済とかを指すと言われている。
天国で清算
Sさんの召天でいろいろなことを感じた。
自分は15年前に比べて経済的にも豊かになった。
天に帰って、
「イエス様、私はこんなに財産を増やしました。家族も幸せも手に入れました。仕事も与えられました。車も手に入れました。いろいろな知識も身に付きました!!」
と、報告したらはたして神は
「よくやった。よいしもべだ。」と喜んでくれるだろうか?
豊かになること自体は悪い事ではないかもしれないけれど、神からの答えはもしかするとこんな風かもしれない。
「それは全て私が与えたものだ。それを使ってあなたは何をしたのか?」
かつて共に歩んでいた方が天に帰ったことを思いながら、与えられたものをどう使うか? が問われているように感じました。