殺人を犯した人と会ったことがある。
と言っても本人が告白しただけなので、真偽のほどはわからない。
しかし、周囲の人は「そういえば」と思い当たるフシがあったようだ。
まじめな人で、かつて教会に来ていました。
とてもキレイ好きで、教会をいつもキレイに掃除してくれていました。
だからしっかりした人なんだなという印象を受けていました。
ですが、別の一面もあったようです。
それは「自分がキレイにしたものを汚す人は許せない。」という一面。
ゴミを無造作に散らかすような人には激昂する一面を持っていたようです。
だから、周囲の人が殺人の告白を聞いた反応は、「まさか」ではなく「そういえば」だったようです。
この話しを聞いた時、「これが聖書で言うところの"罪"かも。」と感じました。
殺人犯の罪
殺人はもちろん罪です。
激昂すると暴力まがいのことをしたり、怒鳴ったりすることもあったようです。
暴力も罪でしょう。
では、激昂して怒鳴ったりするのはどうでしょうか?
「殺人」と聞いた後では、それも罪だったのではないかと感じました。
その小さな種が大きくなって殺人にいたったのだろうと想像がつくからです。
実際に会った人の実例を聞くにつけ、聖書にあった言葉は大げさではなくて、本当にその通りなのだと実感ました。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。言うまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
<ヨハネの手紙 第一 3章15節>
この人はなぜ激昂して罪を繰り返すのか?
普段の様子から察するに、罪を犯しているつもりはなく、正しいことをしていると思っているのではないか。
そんな印象を受けました。
最近、ニュージーランドの事件を見ても思いますが、本人は正しいこと思っている「罪」は多いのかもしれません。
正しいと信じてなければ声明を出したり、ライブ配信したりもしないでしょう。
ですが「怒り」が全て罪とも言えません。イエスも怒る場面があります。
では罪とは何か? と再考してみました。
聖書に出てくる最初の罪は、アダムとエヴァが「善悪の知識の実」を食べたこと。
「これだけは食べてはいけない」と言われていたのに食べてしまった「罪」。
神が定めた善悪の基準を覆した罪。
さらに「善悪の知識の実」についても興味深い文章を見たことがある。
「善悪の知識の実」には後遺症があって、それは「善」の方が厄介だとあり、これは言いえているかもと感じた。
聖書の"罪"はヘブライ語で「的はずれ」というニュアンスがある。
神の基準から逸れて、神の望まないことをするのが「罪」。
聖書の中にパリサイ人という人たちが出てくる。
「偽善者」とされており、厳しい律法(戒律)を守ることを誇る一面を持っていたが、イエスは彼らを非常に責めた。
「善行」を日々こなしながらも、心からではない点を指摘されている。
最近起きるいろいろな事件を見ながら、自分も逸れていないかと振り返った。
自分の「善」は神の願いと一致しているだろうか?
自分の中に「小さな種」はないだろうか?
しかし一度逸れてしまったらアウトではない。
文頭に出てきた方が今どこにいるのかはわからないが、神は憐み深い一面を持っているのも事実だ。
わたしは誓って言う。──神である主の御告げ──わたしは決して悪者の死を喜ばない。
かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。
悪の道から立ち返れ。
<エゼキエル書 33章11節>