最近「なぜ?」と思う出来事があった。
会うなりいきなり非難された。なぜそこまで言われないといけないのか? とも感じたが、しかしそれは聖書にも書かれていること。
問題が目の前まで来るのはあり得ることで、あらゆる試練には何か意味がある。
ロゴスとレーマ
なんであの人はあんなにキツいのだろうか?と、思っていたが、普段は会うことはない人なので、あまり気にせずにいた。
ところが、数日後に電話がかかってきた。さらにダメ押しの電話であった。
なんでそんなに攻撃的なのだろう?と腹も立ったが、引っかかるものがあった。
困ったことに、ちょうど学んでいる聖書箇所は以下の箇所だったためだ。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし」というような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者」というような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲直りしなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
マタイの福音書 5章22節~25節
これはまずい。
あぁ・・・よりによってなんでこの箇所を。
山上の垂訓は世の視点から見れば、「無茶ぶり」としか思えないかもしれない。
正しいものを正しいと主張する!!
・・・という「人間の正義」とは異なる「神の義」が示されていた。
しかしこの箇所がなぜだか心に突き刺さる。
聖書の言葉には2種類ある。「ロゴス」と「レーマ」。
「ロゴス」とは単に文字としての言葉を意味する。
「レーマ」とは神の霊による語りかけのこと。
神が直接自分に語っているとしか思えない聖書の言葉が「レーマ」。
今回は「レーマ」らしい。
自分の感覚、常識、論理では、仲直りをする意味がまったくわからない。
別にこのままでいいのではないかと思ってしまう。
わかっているのは、その時は意味がわからなくても「神の導きに従うと祝福される」ということ。
震災の時もそうだった。
iroiro-memo.hatenablog.com
ただ、どう仲直りしていいかまったくわからない。なぜそんな言動をするのだろう?
理解できないので取っかかりもつかめない。
しかし神の導きに従わなければ祝福されない。
険悪な雰囲気になって後悔するかもしれないが、どうせ後悔するなら神に従って後悔した方がいいという結論に達した。
神に祈って、とりあえずこちらから電話してみた。
先方の応対は意外と冷静であった。
非礼があったら申し訳ないと先方に伝え話しをしていく中で、誤解の原因が見えて来た。
先方が責めたのは、こちらへの期待の裏返しの一面もあったのかもしれないと感じた。
「このようになりたいのであれば、こうすべきではないのか。」というのが主旨だった。
まさかそんなことを考えてくれているとは思わず驚いたのもあるが、少しでも期待してくれていたとすれば、素直に嬉しかった。
そんな風に考えてくれていたかと思うと、電話する前と印象が変わった。
とは言うものの、先方の要求に応えることは現実的に考えていなかった。
その方向性へは進めない旨を伝えたが、電話をしてよかったと思った。
電話しなければ理由もわからぬまま、何年も非難の気持ちを引きずったかもしれない。
モヤモヤは消えて、感謝の気持ちが残った。