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席を譲ろうとして断られた話

電車の遅延が発生していた日のことでした。

幸い自分は座ることができて、混んではいたけれどそれほど疲れてもいませんでした。

山手線の大きな駅に到着して、沢山の人が降りた後、気が付くと足を引き摺った人が立っていた。
自分はドアの近くの席に座っていたので、こちらに歩いて来ます。
高齢者というほどではない中年の男性。たぶん50代~60代。でも杖をついていました。


席を譲ろうかなと思いつつ、一瞬ためらいました。

やたらと感じが悪い。


表情が険しく、怒っているようにも見えました。
Yシャツとスラックス姿のサラリーマン。Yシャツはヨレヨレでボタンも3つくらい開けていてだらしない感じ。

自分の上の棚に投げ捨てるように鞄を起きました。

足は悪そうだけれど、正直あまり関わりたくないタイプの人でした。
高齢者だったら譲るのに。妊婦だったら譲るのに。せめてもうちょっと憐みを感じるような容姿とか雰囲気だったら譲るのにと思いつつ・・・


さてどうするか?


しかし、足が悪い人を目の前に立たせておくのもいかがなものかと思うので、腰をそろりとあげつつ・・

「・・・よければ座ってください」

「いいっす!!(怒)」

・・・と、速攻で吐き捨てるように断られた。


とりあえず元の席に座った。なぜかこちらが迷惑をかけたような空気。


以前なら、「せっかく席を譲ったのに」とイラついたかもしれないが、少し考えた。
その日は電車遅延でかなり混雑していた。足が悪く杖をついているのに、誰も席を譲ってくれず、配慮もしてくれない。そんな周囲に対する怒りを、こちらに向けたのではないか。

よくわからないが、たぶんそんな感じて大きくは外れてはいないのではないかと感じた。
少なくとも怒らせるようなことはしていないのだから。


ふと聖書の箇所が思い浮かんだ。
善い行いをして人に褒められたとしたら、既に地上で報いを受けているのだから、天では報いを受けられないという箇所。(マタイの福音書6章)

神に喜ばれる行いをしつつ、人から称賛を受けない状態。隠れた善行。これが天での報いの対象となる。



ということは、今の状態がベストということか!


そう気づくと、テンションが上がった。
人生とは結局、神に喜ばれるかどうかだ。


目的駅について降りようと準備をしていると目の前にVサインが伸びて来た。

先ほどの足の悪い男性の手だ。

見上げると別人のような満面の笑顔だった。

「さっきはどうもありがとね。せっかく譲ってくれたのにあんな態度を取ってすまないね。イラついててあんな失礼なこと言って申し訳ない。ありがとうね。」

と言って、電車を降りて行った。

人はみな罪人と聖書には書いてある。

不遇な環境に追い込まれれば苛立って、罪を犯してしまう弱い存在。
しかし罪人であっても、悪人ではないケースは多いと思う。

この弱さを神は憐れんだのかもしれないと、そのおじさんを見て感じた。

ためらいつつも声をかけてよかった。朝から気分がいい。


しかし、おじさんに称賛されたということは、この報いは天では受けられないということになるのだろうか。