ひさびさに洗礼に立ち会いました。
聖書には人が神に立ち返る時、天の御国で喜びが起こると書いてあります。
洗礼を見るたびに思い出す出来事があります。
昔、ホームレスの炊き出しに参加していた時のことです。。
礼拝
教会主催の炊き出し。あるホームレスのおじさんがちょっと変わった行動を始めました。
炊き出しでもらった丼ぶりを両手で持って、それから膝まづき、頭を垂れて、丼ぶりを上に捧げるような姿勢を取り、暫くじーっとしていた。
ぱっと見で感謝をささげる姿勢。
自分は少し離れた場所で見ていたが、おじさんの前にはご飯を配った人はいません。
だから人に感謝を捧げているわけではなさそうです。
「・・・おじさん礼拝している」と感じました。
周囲の人が黙々と食べている中、そこだけ空気が違っていて、人が神に立ち返る姿はこんなにも素晴らしいのかと感心しました。
いかにも競馬場とかにいそうなおじさんが、礼拝の時間でもないのに周囲の目も気にせず神に感謝を捧げている姿。
この突然の意外性もあったかもしれません。
人が神に立ち返った姿に、目の前が急にパーっと明るくなったのを今でも覚えています。
なぜだかとても嬉しく感じ、疲れも一気に吹き飛びました。
この時、
「もしかすると神からはこんな風に見えているのかもしれない。」
「神はこんな風に感じているかもしれない。」
と感じて、次の聖句がふっと浮かびました。
罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
(ルカの福音書 15章7節)
聖書のこの箇所には同じような話しが3連続で書かれていますが、いづれも人が神のもとに帰ってきた時、天でよろこびが起こるとか、祝宴が催されるという内容です。
洗礼自体は「バシャっ」とやって、「ジャブっ」と上がってくるだけのもの。
世間の人が見ると、「・・・え? 終わり?」と見えるかもしれませんし、宗教行事に見えるかもしれません。
しかし、このおじさんの出来事以降、天で起きる喜びというのは、人が想像する以上のものだろうと感じています。「死んでいたのが生き返り」という表現でも書かれていて、だとすれば祝宴が開かれるのも大げさではないでしょう。
洗礼を見るたびに、あのおじさんの姿が浮かび、天で湧き起る喜びを思います。