ブログタイトル

人に見せるために・・・

教会にはいろいろな人が来る。アンダーグラウンドな世界にいた人も。


先日、そんな方が教会を訪ねてきた。
来た日は周囲に凄んでいたが、暫くすると教会に馴染んだように見えた。


賛美の時は手を上げて歌い、奉仕にも参加していた。
特に牧師の言うことはよく聞いたし、気が利く一面もあった。一見順調に見えたが、気になることがあった。



それは立場の弱い人に対して、見下すような態度を取ること。




牧師の前ではそんな素振りを見せず大げさなくらい従うのだが、牧師の目がないと態度を一変させる。



時々メンバーと衝突すると大声を出して脅し、そのたびに牧師から指導されていたのだが、指摘されると「申し訳ありませんでした。」と素直に謝る。


悔い改めたのかなと思うと、同じようなことを繰り返した。
ある日、教会のメンバーを恫喝して追い出してしまった。そのことが明るみに出て、誰もが知ることとなり教会を出て行き、脅された方は戻ってきた。


脅迫するとは、なんて悪い人だろう・・・


・・・で、終わってはいけない話しだと思う。
その人の姿を見ていると、自分も気をつけなければと思わされた。


単純な恫喝であれば素行が荒っぽいという話しだが、牧師の前とそうでない時では態度が違う。問題の本質は、「神よりも人に認められようとしていたこと」のように感じた。



ある程度の知恵があれば、敬虔なフリは可能だ。
礼拝中は手を上げて賛美し、いろいろな奉仕もしていた。




神を意識することなく、人に良く見せる。「人に見せるための信仰」。
今回は「恫喝」「脅迫」だったので、わかりやすかったが、表面化しないまま続くケースもあるのではないか?



これは実際に聖書の時代からあることで、以下のような聖句もある。



また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。
彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが
好きだからです。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを
受け取っているのです。
(マタイの福音書 6章5節)


神の前に遜り感謝するのではなく、立派に宗教行事をこなす自分を人に見せること。
他にもこんな箇所がある。



エスはその教えの中でこう言われた。
「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって
歩きまわったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、
また会堂の上席や、宴会の上席が大好きです。
また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りを
します。
こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
ルカの福音書 20章 46〜47節



聖書には宗教者の律法学者のことが書かれているが、「立派な姿」の演出は人間が陥りやすい罪の一つであるかもしれない。教会に限らず、一般社会の中でも。


律法学者たちは厳しい律法を定めていた。十戒で神が定めた律法に次々と新しい規則を追加した。
律法を厳しくすれば厳しくするほど、「守っている自分たちの優位性」を主張でき、「立派な自分」に、酔いしれることもできる。
伝わってくるのは、人から称賛を得ることを動機として行動している姿。いづれも人から何かを得ようとしている姿勢。


それに対して新約でイエスが与えられた戒めは二つだった。
神を愛すること
人を愛すること


人を愛することは、たとえ話で出てきた「良きサマリヤ人」に見る事ができる。
強盗に襲われた旅人を助け、ロバに乗せて宿へ連れて行き、宿主にお金を払い、足りない分は帰りに払うという姿。
人から得るのとは全く逆の、与えるという立場。



律法を守ること自体は罪ではないだろうが、何のためにそうしているのか。


では、神を愛することとは?
さきほどの聖句の前後にヒントがありそうだ。


あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。
そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈り
なさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、
あなたに報いてくださいます。
マタイの福音書 6章 6節


神との関係は究極的には一対一。
人に良く見せるためのものではなく、誰も見ていないところでも、神がすぐ近くにいると信頼し、神に喜ばれることをするということなのだろう。



人に認められることを第一とせず、神の前に正しく生きなさいと示されたような出来事でした。