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水を汲んだしもべ

以前に生活困窮者の炊き出しに行った時のこと。

教会主催なので、神を伝え、励まし、自立を支援することも目的です。


賛美と聖書のメッセージもあるのですが、「どうせ食事が目的で来ている人達だけはないか?」という批判を耳にすることもあります。

確かにそういった一面もあって、メッセージの時に寝てる人もいました。



しかしメッセージの途中で「うんうん」と首を縦に振って聞いている人もいるので、『人はパンだけで生きるのではない』とある通り、メッセージや励ましを求めている人もいるようです。


■祈り

炊き出しのご飯が余ると「おかわり」として、2回目の配給をします。


ふと目をやると、ある男性が二杯目のご飯をもらった後に、一人で頭を垂れてご飯を捧げるような姿勢で持ち、祈りを捧げていました。
誰も見ていなかったと思いますが、神はこういう姿を見ているかもしれません。


一人で祈りを捧げている様子を見ると、この奉仕がただのムダな徒労ではないと感じて、逆にこちらが励まされます。

おかわりで祈ってる本人は、まさか自分が誰かを励ましているとは露も思っていないでしょうが。

この様子を見ていたら、聖書のある箇所が思い浮かびました。



ヨハネ福音書 2章

エスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
エスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」
彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、
――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた――
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」



婚礼の場で、ぶどう酒がなくなった時に、イエスが「水瓶に水を入れてきなさい。」と言った箇所。


言われた通りにしたら、水がぶどう酒に変えられるという奇跡が起きたのですが、この出来事を知っているのは、手伝いの者たちだけでした。



この日、炊き出しの後片付けをしていると、誰もいなくなった公園にお辞儀をしている方がいた。実際は何もないのだが、そこに礼拝堂があるかのように一礼をしていた。


顔を上げた時にこちらと目があったので、こちらもお辞儀をしたら、ニコリと笑ってもう一度お辞儀をして帰って行った。


ホームレスの人達を支援するつもりで行っても、神がこの場にいるような空気を感じて、こちらが元気づけられることも多い。


信仰者に変えられて行く姿は、水がぶどう酒に変えられた場面を見ているような気持ちにもなる。



神からの促しを感じたら、水を汲んでみようと思い直した。

神と自分しか知らない出来事を見ることができるかもしれないので。