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ベテスダのほとりで

聖書にベテスダという池の話が出てくる。エルサレムにあった奇跡が起こると言われていた池での話。


大勢の病人が集まっていたのですが、ここに38年間も病気で苦しんでいる人がいた。


そこへイエスが通りかかり、「よくなりたいか」と聞いた。
するとこの人は窮状を訴える。


池の水がかき回された時、池に入ると癒されるはずなのに、他の人が先に入ってしまう。
誰も池に入れてくれない。



「よくなりたいか?」
という問いに対して、「誰も池に入れてくれない」と答えた。



よくなりたいとそのまま答えるのではなく、状況の悪さを説明した。それでもイエスは意思をくみ取ってか治してくれたのだけれど。


治ることが目的で、池に入るのはそのためのはずだけれど、いつの間にか池に入ること自体が目的になっているように見えなくもない。


自分もこんな応答をしていないか?と気になった。


昔、トラブルを抱えていた頃。いい部屋に住めば、問題は解決すると勘違いしていた時期があった。


「よくなりたいか?」の問いに、
「いい部屋がありません。」と答えていたかもしれない。


神を見ないで、「池に入ること」に意識を取られてしまっている姿が、昔の自分と重なった。


知らず知らずこんな風な応答をしていないだろうか?と振り返ってみた。