昨年、「あらしよしずまれ」という記事を書きました。
iroiro-memo.hatenablog.com
ウチの子は、雨が降るとたまに「あらしよしずまれー。あめよやめー。」と、空に向かって叫びます。
それは聖書の中で、イエスがガリラヤ湖で、風と荒波をしかりつけて鎮めた場面から来ています。
まだ小さかった頃・・・多分3歳頃。この話しをしてあげました。
それ以来、雨や嵐を見ると、マネをして「あらしよしずまれー。」とやるようになったのです。
最初のうちは子供っぽくてカワイイなと微笑ましく眺めていました。
実際に雨が止んだりすると、「本当にやんだね」「祈りがきかれたね」と一緒になって喜んびました。
あれから数年が過ぎて、小学生になった。息子は今でもそれをやる。
先日も雨に向かって叫んだ。
初めて見た人は「あんまり大声出さない方がいいよー。」という感じだったが、おちゃらけキャラなので、みんなふざけていると思うのか、別に変に思われてる様子もなかった。
そして暫くすると雨は止んだ。
太陽の光が出てくると、息子は外に出て、「やったー」といつものように喜んだ。
そしてふと思う。
3歳の頃から、この場面を何度目にしただろう。
少なくとも自分と一緒にいる時、雨や嵐が止まずにガッカリしている姿は思い出せない。
何気なく話したのだけれど、息子は今もそれを信じていて、少なくとも自分の目の前では確かに雨は止む。
この体験によってさらに確信を深め、疑いがないからから人前でも叫ぶ。これが息子の「神体験」の原点になっているのかもしれない。
そのことを思った時、聖書の言葉が浮かんだ。
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブの手紙1章5~8節)
ここに出てくる「二心のある人」とは、もしかすると自分のことではないか?
息子に聖書の話しを聞かせながら、実際には心の底で信じていない自分に気付かされた。
神学的には「祈りは神の御心ならば聞かれるが、そうでなければ聞かれないこともある」と説明するのが正しいのだろう。
しかし聖書にはこんな箇所もある。
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(マルコの福音書11章23節)
子どもは指導すべき存在と思っていたが、殊に「信じる」ということになると、立場が逆転することもあるのかもしれない。
しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
(ルカによる福音書 18章16~17節)