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水を汲んだしもべ 再び

先日も生活困窮者への奉仕に参加した。


と、書くといかにも献身的だが、違った一面もある。

クリスチャンになりたての頃、ちょっとした奉仕に参加したことがある。それは体が不自由な方の家に一緒に泊まり、夜中に寝返りをうたせてあげるという奉仕だ。


ただそれだけなのだがこれが大事で、体が動かせない方は寝返りをうたせてあげないと褥瘡ができてしまうようだ。


その奉仕に参加している頃、教会の人からこんなことを言われた。


奉仕は『修行』ではないのですよ。喜んでやるならいいのですが、そうでないならやらなくてもいいのですよ。



当時は言っていることがよくわからなかったが、泊まって夜中に2,3回寝返りをうたせてあげるだけだし、ご飯も出るし負担も少ないから何度かやった。



今も別の奉仕に参加することがあるが、生活困窮者に食べ物を配っていた時のことである。
この時は人が少なく食べ物が余ったので、何周もして同じ人たちに食べ物を配って歩いた。


3周目のことだったか。それまで片手を出してなんとなく食べ物を受け取っていたある男性が、バナナを受け取るや否や、感慨深げに頭を下げた。


さっきまでの態度と急に変わったので少し驚いたが、その男性は周囲の目もはばからず、両手で受け取ったバナナを捧げるような姿勢を取り、さらに頭を垂れ深い感謝を表しているようだった。
自分は次の人に配るために通り過ぎて行ったが、彼は暫くその姿勢から動かなかった。


以前にも書いたが(※)、こういう光景を目にする機会があることは喜ばしいことだ。。

※2013年11月の記事


神がこの人に触れたかもと感じる時であり、自分のしていることが不毛な徒労ではなくて、一応神の働きの一部を担っているのかなと肌で感じる時でもある。


いろいろな人がいる。無愛想だったり、ふてくされた態度だったり。
しかし、なぜこんなことを続けているのかと言えば、「もしかして神が介入したのではないか?」と、感じることが多いからだ。


「やらなくてはならない。」という感覚よりも、「神が共におられる。」という感覚が近く、励まされるのは実はこちらだったりする。


15年前に教会の人が言っていた「喜び」というのは、こういうことなのかな?と今は思う。