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迫害する者のために

しかし、わたしはあなたがたに言います。
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
(マタイの福音書 5章44節)

聖書の福音書を前から順番に読んでいくと、祈りについて最初に語っている箇所は、マタイの福音書5章にある。
祈りについて一番最初に書かれたこの言葉には意味があり、これが聖書の祈りの本質を現していると感じた。


・・・と、ある教会の牧師が言っていた。

まだクリスチャンではなかった頃、最初に牧師から勧められた言葉でもあった。

マタイ5章44節

教会に行くことになったキッカケは嫌がらせを受けたことだ。

かつてはそんなことをする人たちもいた。

牧師に相談したら上のマタイ5:44 を薦められた。

しかし、最初に聞いた時にはかなり抵抗があった。

そんなことをする意味があるのか。

そんな悪い連中は戒めるべきであって、そんな風に祈ってその通りになったら、ますます栄えて被害者が増えるだけじゃないかと。


しかし、一億歩ゆずって「あのとんでもない連中」のために祝福を祈ってみた。


2週間ほど祈った頃、人生の分岐点が訪れた。
「あの(中略)連中」との問題に、解決の糸口が見つかった。


思いもよらない展開に、もしかすると神はいるのかもしれない と、初めて肌で感じた出来事となりました。


先生も

「あの(中略)人たち」(改善)との問題は暫く続いた。

以前のように振り回されることはなくなったのだが、なかなか解決しない。


そんな時、再びあの聖句、マタイ5:44が心に浮かんだ。

昔、人生の分岐点のキッカケとなったことを思い出し、再び祈り始めた。


祈り始めてから今度は2か月ほど経っただろうか。

取引先に初老の男性がやってきた。
周囲からは「先生」と呼ばれていたが、パソコンは苦手。

毎日電話がかかってきて、「お時間があればパソコンを教えていただけないでしょうか。」と頼まれるようになった。

年齢の割には威圧的なところもなく、とても謙虚な人だった。
毎日10時半から12時ころまでパソコンを教えて、お昼休みになると、雑談をしながら外を歩いた。


ある日、そう言えばあの人は何の先生なのだろう? 専攻は何だろうか?
と、気になり、ネットで名前を検索した。


自分がパソコンを教えていた「先生」は学校の先生ではなかった。

かつて権力の座にいた人で、しかもこともあろうに自分が問題を抱えていた「あの人たち」の幹部の可能性すらある。


しかしその時、「あの人たち」からしばらく嫌がらせを受けてないことに気が付いた。

幹部と仲良くなってしまったせいで、何もできなくなったということか。


長期に渡った問題は、それ以降、完全に消滅した。


迫害する者のために祈りなさい


再び大きな転機が与えられた。

理不尽に思えたこの聖句は、いつも神を身近に感じさせてくれた。


小学校といじめ

息子が小学校に入学した。
「小1プロブレム」の真っ最終。いじめに遭ったりもする。
目立ちたがり屋なので、上級生のチョイワルグループに目をつけられたり。


先生に相談したり、必要に応じて介入し個々に解決している。
目の届かないところで起きることは、自分のことよりハラハラする。


マタイ5:44
今は息子と共に祈っている。

大きな転機はいつもこの聖句と共にあった。
今回はどうなるだろうか。