ブログタイトル

ある日の炊き出しにて

たまに炊き出しに参加したりしてました。
教会が主催するのですが、ある日洗礼式が行われました。




久々に炊き出し行ってみたら、Sさんの洗礼式が行われることになっていました。

Sさんは教会の炊き出しに来るようになって10年近くで、いるのが当たり前のような感覚になっていたが、そう言われると洗礼は受けていなかった。


公園に住んでいる人たちの中の重鎮みたいな人で、周囲からは年金をもらったらどうか?とか施設に入ったらどうかという話もあったが、全て断っていた様子。
洗礼の奨めも、「オレはガラじゃない。」「好きに生きたい。」といつも断られていたようだ。


炊き出し前に整列させたりするは、この人の尽力が大きく、うまく仕切ってくれていた。
炊き出し側の助けもしてくれて、絶妙なバランスでこの活動を長い間支えてきてくれた人である。
そのSさんがついに10年目にして洗礼を受けると言い出したようだ。




しかし驚いたのは洗礼自体よりも、家を出てから20年間、一度も連絡を取ってなかったというSさんの親族の方が、この日訪ねて来たということだ。


Sさんから連絡を取ったわけではなく、親族の方があちこち探し回り、ついにこの公園にいるらしいという情報を元に、やっと探し出したらしい。

住所はないのに、一体どうやって探し出したのだろうと思う。


そしてこの日、親族の方の立ち合いのもとで洗礼式が行われた。


今まで洗礼を受けた方は他にもいた。しかし、公園に親族が訪ねてきて立ち合いで洗礼式をするのは見たことがない。しかもすごいタイミングで訪ねて来た。



洗礼を受けてからも、親族の人たちとは暮らさずに公園にいたいという本人の希望で、暫くそのまま暮らしていたが、数か月後にSさんは亡くなった。

重い病気であることは自分でもわかっていたようだ。
教会で死にたいと言い、身を寄せていたようだが、救急車で運ばれた。

病院には親族の方がお見舞いに来たり、亡くなった後も親族の方に引き取られお墓に入った。
こういうケースは珍しい。


聖書の言葉を思い出した。
さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。


この日は神と親族、両方同時に和解が与えられた日のように見えました。

数多くの洗礼に立会いましたが、一番印象に残っている洗礼式です。