現在は牧師をしている知り合いのクリスチャンが、被災地支援に出かけて行った時のことが、印象に残っているので記録。その人を仮にSさんとしておきます。
Sさんは被災地でボランティア活動をする傍ら、持参した聖書を配って被災者を励ましていましたが、その中で家、家族、仕事、すべて失ったある男性に会いました。
お金も底をついたと聞き、どう慰めの言葉をかけたらいいかもわからなかったと言いますが、祈りの中で一つの聖句をいただいたそうです。
それは以下の聖句
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み
その祈りを侮られませんでした。
この聖句を男性に伝え、最後の一冊の聖書を男性に渡したところ、食い入るように見ながら声を出して繰り返し読まれたそうです。
後で聞いたのですが、以下がその箇所です。
「主を賛美するために民は創造された。」
この箇所を繰り返し読んだ後、生気を取り戻したとのことでした。
どのように響いたかは、この方にしかわからないのですが、必要な語りかけとなったのでしょう。
聖書は分厚いのにピッタリの所を開いてよかったですねとSさんに言うと、ホントにそうだと納得していた。
『主を賛美するために民は創造された』
自分もその聖書箇所が気に入ったので、それはどの箇所ですか?とSさんに聞くと、詩編102篇あたりだったはずとのことで、聖書を開き二人でその箇所を探してみた。
・・・が、そんな箇所はなかった。108篇かもしれないと前後を読んでも、出てこない。
試行錯誤しているうちに、
「そういえば新共同訳だったかも・・」と、Sさんがと言い出した。
聖書にはいくつかの訳があり、訳によって若干ニュアンスや印象が変わるが、基本的に同じ内容です。
自分の教会の聖書は「新改訳」。Sさんも新改訳を持参して被災地へ出かけたが、一冊だけ「新共同訳」が混じっていたらしい。
普段は使わない「新共同訳」は最後まで残り、最後の聖書がその男性の手に渡った。
新共同訳で探すと、確かにその箇所はあった。<詩編102篇 18節〜19節>
新改訳と新共同訳の両方を持っている人は見比べみるといいと思う。
新改訳には「主を賛美するために・・・」の一文がない。
もしも最後の聖書が新共同訳でなかったら、どうなっていたのだろうと、二人で顔を見合わせた。
最後の一冊がちゃんとその男性に渡り、たまたまその箇所を男性が開き、その一文が立ち直るキッカケとなったという事実は、神の采配のように感じられてとても印象に残った。