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義人はどちら?

立派にすごした人がダメで、罪人らしき人がOK。
なぜなのか?

聖書を読み始めた頃、以下の箇所が理解できませんでした。



9 自分を義人だと自任して他の人々を見下している者たちに対しては、
エスはこのような たとえを話された。
10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、
もうひとりは取税人で あった。
11 パリサイ人は立って、こころの中でこんな祈りをした、
『神よ、私はほかの人々のよう にゆする者、不正な者、
姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを
感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、
その十分の一をささげております』。
13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともせず、
自分の胸をたたいて 言った。 
『神さま。こんな罪人のわたしをあわれんでください』。
14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者
は高くされるからです」。
(ルカの福音書18章9節〜14節)



しかし思えば、パリサイ人には不遜な点も見て取れる。


「感謝します。」としながらも、他者を見下げる内容の羅列。
神への感謝なのか、信仰自慢なのかよくわからない。一見、祈りの体裁は取っているけれども、一言でまとめると、「私は立派だ。」と言っているかのよう。



対して、取税人。
詳細は書いていないが、悔い改めるべきことがあったのであろう。



取税人は神の前に遜り、パリサイ人は「自分の立派さ」に軸を置いているようにも見える。
パリサイ人は当時の律法学者。聖書については詳しいはずなのだが、人間はこんな状況に陥りやすいということなのだろう。


「自分は正しい。」と祈る人と、「神は正しい。」と祈る人。
同じように見えても、全く別物。義人はどちらか?


正しい行いを積み重ねたとしても、思いあがっては元も子もない。

この聖句箇所を忘れぬよう肝に銘じたい。