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福音を述べ伝えよ

大雪から一週間が過ぎて、もうスッカリ雪もなくなってきた。

冬用ブーツまで買ったのに、一度も使うことなく、あの時が遠い昔のようです。


昼食を買いに行く時に歩道橋を歩きながら、あんな大雪の時にホームレスの人はどうするのだろう?となんとなく思い浮かび、そして背筋が凍りついた。


歩道橋の下に、一人のホームレスの人が暮らしていたことを思い出したからだ。




その方は数年前からそこにいた。駅周辺の人はおそらく顔は知っていると思う。
道行く人に小声で「すみませ〜ん」と声をかけて立ち止まると「100円ちょうだい」とお金をせびる。歩道橋の下に毛布を敷いて、そこで寝ていた。


炊き出しに来るホームレスとは明らかに違う汚い身なり。
炊き出しに来るホームレスは小奇麗な人も多いです。炊き出しに来る時点で、情報収集能力もあり、スケジュール調整などの自己管理ができていると思われます。そういう人達とは明らかに違う人でした。


あまりにもみすぼらしくて見ていられないのですが、職場の近くということもあり、声をかけるのも躊躇われました。聖書に立ち返り、
「この状況で神が自分に望んでいることは何だろう?」
と自問しつつも、親切にして毎朝声をかけられても困るという逃げの気持ちもありました。


炊き出しでホームレスの人と接したことはありますが、「礼拝」「教会」というフレームに守られていただけで、一対一でホームレスと向き合ったことは、実はなかったのです。


なんとかしてあげたい気持ちもあり、人知れず少しのお金か食料を渡そうと考えました。
ある日、その人が歩道橋の下へ帰って行くのを見届け、そこで暮らしていると知りました。
そこで誰もいない時に、500円玉を歩道橋の上から落としてみたりというセコい施しをしてました。
本当はお金をあげるのは御法度なのですが、人通りもある歩道橋の下で、パンなどはゴミを捨ててると思われても困るので、この方法になりました。



大雪の時は自分のことで精いっぱいで、そんなことはスッカリ忘れてしまっていたのですが、最近その人の姿が見えなくったことに気が付きました。
おそるおそる歩道橋から下を覗き込むと、何年も敷いてあった毛布はなくなっていました。



施設に入ったのかどこかへ移動したのか、わかりません。
あの雪に耐えられるような服は持っていなかったように思います。
何年もそこにいたことを考えると、そのお婆さんは亡くなられたのかもしれません。


今になって気がかりなのは、『誰か福音を伝えていただろうか?』ということ。


今まで小銭を渡すことばかり考えていましたが、そんな目先のことよりも、あの大雪の中で本当に役に立つのは、福音の方だったのではないか?極限の状態でチカラや希望になるのは、実はこちらではないか?という気持ちが残りました。


大雪の中でも、バルテマイのように神に叫び求めていたら、何かが変わっていたのではないか?
自分は鍵を持っていたのにも関わらず、渡さなかったのではないか?という後悔が残りました。


「福音を述べ伝えよ」の聖句は教会のノルマのようで少し重たいと感じていたこともありましたが、自分の思い違いでした。


今までは相手に信仰告白させることをイメージしてましたが、聖句はそんなことは言っておらず、あくまでも「述べ伝えよ」と記されてます。


今回のことで「イザという時のために鍵を渡しておきなさい。」
というニュアンスをこの聖句から感じました。


異常気象や社会情勢の変化など、困難に直面しやすい時代になりました。
絶望的な状況に出くわす場面は、増えるかもしれません。


そんな時に神に叫ぶチャンスを、その人から奪ってはならず、鍵は自分のところで止めてはならない。


すべて相手が生きているうちしかできない。
「とりあえず渡しておこう。」という思いが残りました。