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教会とは?

教会って何だろう? 目指すべき姿はどんなものか?
と、今さらながら考える機会があり、聖書をひも解いて勝手に復習してみた。


このことがよく解説されているのは、たぶん「コリント人への手紙 第一 12章」。




いろいろ

賜物/奉仕/働き にはいろいろな種類があると書いてある。表面的にはいろんな働きがあるけれど、人々の中で働きを導いているのは同じ神さま。(4節〜6節)


また人それぞれに、別々の賜物が分与されている。(7節〜11節)
人それぞれ与えられた能力があり、それぞれの役割があるということか。


以前、教会でこれからの働きについて話し合ったことがあったが、意見がバラバラだった。
バラバラすぎて、かえって気持ちがスッキリするくらいであったが、全員別々の賜物を持っているとすれば、見える風景も全く違っていたのかもしれない。





キリストのからだ

また、教会を「からだ」に譬えて説明されている。

手とか足とか、からだには色んな器官があるが、周囲と違うから「自分はからだに属さない。」というワケではないと説明されている。(15〜16節)


かえって逆に、「みんな同じことしてどうするの?」とでも言うかのように、
「みんな目だったらどこで聞くのか。」と問いかけている。(17節、19節)


ここでもそれぞれの器官に分かれて働きや役割があると書かれている。
適材適所が大事ということなのだろう。また働きを画一化することは、「からだ」としては、かえって不自然はのかもしれない。



すべて必要/優越なし


頭が足に向かって、 「私はあなたを必要としない」 と言うこともできません。(21節)


つまりすべて必要。たぶん企業のような「効率優先の集団」とは違うのだと思う。
効率は大事だけれど、それがあまりにも最優先されると「宗教団体」ぽい感じも。


・比較的弱いとみられる器官が、かえってなくてはならない
・尊くないとみなす器官をことさら尊ぶ
と、解説が続きます。(22節、23節)



また、神がことさら劣ったところに目を留めているという記述も印象的です。(24節)
それは分裂がなく、いたわり合うため。(25節)

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ(26節)ともあります。
確かに足の爪なんて見栄えも良くないし、普段気にもしないですが、全部剥がれたら通勤も困難になりそうだ。



全体を通して「敢えて別々にしている?」という印象を受けました。
敢えてスーパースターを作らなかったのは、協力して初めて機能するよう意図されたのかもしれません。


協力やいたわりが前提に意図された、「協力する有機体」として建てられているかなと。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(27節)がそれを象徴しているように思います。