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脅されたら?

使徒行伝を読んでいて興味深いところがあった。


4章で祭司たち、守衛長、サドカイ人らが、使徒ペテロとヨハネを捕まえて留置した場面。


当時の宗教指導者たちが、使徒たちを抑え込もうと拘束。活動をやめさせようと、権力のある側が圧力をかけた。
結局ペテロたちは「自分の見たこと、聞いたことを、離さないわけにはいきません。」と突っぱねたのだが、祭司たちはさらにペテロたちを脅したとある。



留置した上でさらに「脅した」というのだから、当然「留置」以上のことをするから覚悟しとけということかなと思う。場合によっては殺すとか。


それに対する使徒たちの反応が、斬新な感じがした。


■脅されたらどうする?



実際、過去に犯罪に巻き込まれて脅されたことがありますが・・・

もしもクリスチャンになる前だったら、自分は逃げていたでしょう。こんな風に脅されたら言うことを聞くか逃げていたと思います。
気の強い人だったら、負けずに立ち向かう人もいるかもしれません。


クリスチャンになった今、同じようなことになったら、祈ると思います。
「守ってください。」とか。もしかすると立ち向かうような感じで祈るかもしれません。その祈り自体は、悪い事ではないと思いますが、使徒たちの祈りは以下のような感じでした。
特に気になった箇所を抜粋します。


「主よ、いま彼らの脅かしをご覧になり、あなのたのしもべたちにみことばを大胆に語らせて下さい。

御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」



脅され、身の危険にさらされた。

みことばを大胆に語らせてください。
いやしを行わせてください。
エスの名でしるしと不思議なわざをおこなわせてください。



使徒たちの「よいもので埋め尽くす。」感じの祈りは、見ていて正しい感じがした。
祈りの中心は、「みこころを行うこと。」にあるように思えたが、よく考えると『主の祈り』の中にも「みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。」という箇所がある。


いつも祈っているはずなのだが、追い詰められた時こそ基本に立返る方がいいのかもしれない。