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とりなしの祈り

一つ前の「嫌がらせの対処」の続きです。同じ出来事を信仰の面から。



祈る時はいつも緊迫した状況だったりします。

追い詰められた状況になりましたが、切羽詰まった状況は、信仰を一新させてくれます。

断食して祈る日々が続きました。


ある人の人生が悪い方向へ向かいそうな事態に直面しました。

おそらく誤解が原因です。誤解を解こうと奔走しましたが、状況は悪くなるばかり。それどころか圧力をかけられるような状況に。

その方たちは社会的立場のある人たちで、良識もありそうな印象だったので、まさか圧力をかけたりはと思いましたが、立場や成功は必ずしも人格と比例せず、かえって高慢に繋がるケースも多いのでは?と感じました。



「義人はいない。ひとりもいない」 と、聖書にある通りかもしれません。



祈り始めたところ、人を気にして歓心を買うことが必ずしもいいことではないという、以下の聖句に導かれたので、人に取り入る策を捨て、祈り中心の生活に入りました。


いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。
いや。神に、でしょう。
あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。
もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、
私はキリストのしもべとは言えません。
(ガラテヤ人への手紙1章10節)
こんな状況であっても、今までのことを神に感謝し、相手を祝福するようにとアドバイスをくれた方がいたので、そのことを心がけて日々祈りました。


断食と祈りを始めて2週間経った頃。

いろいろな御言葉が来て、この問題はもしかすると大丈夫なのではないかと思い始めた頃、突然相手が謝罪をしてきました。



主従関係では明白に相手側が上であり圧倒的に力があります。

周囲の関係者にこの結末を話すと、「謝るなどあり得ない。」と驚かれます。

強気で圧力をかけてきたのはどうやらハッタリで、約束の状況も実現できなくなり、謝らざるを得ない状況になってしまったというのが現実のようです。




人と向き合って問題は悪化し、神と向き合って状況が根本から変わると言っていた人がいました。

実際そんなケースは多いように思います。

根底から覆るような予想外の展開を見るにつけて、さらにとりなしを繰り返すようになりました。


とりなしの祈りは地味です。

誰にも気づかれない地味な働きですが、自分にとって神を身近に感じることができる最も簡単な方法でもあります。


キリストもしている「とりなし」。倣ってみるのもいいのではないかと思います。


罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。