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ラオデキヤ

最近、黙示録の学びをしているが、黙示録の7つの教会の箇所は興味深く、考えさせられることが多かった。


中でも気になったのが、「ラオデキヤ」。


wikipediaにはラオデキヤ意味としては「国民の義」という解説があったが、語源はギリシャ語の「ラオス」と「デクトス」が合わさりできた言葉という説も聞いたことがある。


ラオスは「民衆」。
デクトスは「喜ばせる」。


つまり人を喜ばせる教会。


■ラオデキヤの教会

「教会のかしらはキリスト」 のはずなのだけれど、このニュアンスだと「民衆がかしら」ということになる。
つまり神に関心があるようで、実際は自分たちに関心がある。
キリストではなく、民衆が中心の教会。


聖書の教えは、人が好むものばかりとは限らない。
ヨセフだってヨブだって、行きたいところへ行って好きなように生きたわけではない。結果は祝福されたけれど。


多くの人がいいと思うものが、神の目に正しいとも限らない。
結果的に、ラオデキヤは神の口から吐き出された。


■豊かである

ラオデキヤは悪い教会であるから、きっと悪人が多くて、ガラも悪いところなのだろうと思い込んでいたが、よく読むと少し違う。


ラオデキヤの特徴は、「富んでいる」「豊かになった」「乏しいものは何もない」という状態。


つまり非常に満ち足りている状態。
お金やモノが満ちていて、不平・不満がなくて、楽しい。ある意味で充実したコミュニティである。
現代的に見れば、とてもいい状態に見えるのだが、神から見ると問題があった。


その問題は「なまぬるい」ということ。
お金があり、楽しくて、不満は何もないけれど、神を慕い求める熱心さが失われていること。
神より人が中心の状態。




読んでいて、「う〜ん、気を付けなければ」と思った。


教会が大きくなったら嬉しくなって、人集めに夢中になる心理状態は、理解できないでもない。
知らず知らず陥ってしまいそうな誘惑だ。


その結果、キリストや聖書を軸に置くことを止め、「人に受け入れられること」「人が喜ぶこと。」に中心が移っていく。
でもそれだったら、世の中の楽しさだけで十分ではないか?



聖書の教えは甘く心地よいものだけではないが、人に喜ばれる箇所だけピックアップして語られるようになってしまえば、もはや「キリストの体」ではなく、「楽しい宗教団体」だ。


神の支配よりも、自分の人生観による支配の方が、ずっと楽だし心地良い。
世の中には「自分好みの体制を作って支配する。」ことを動機として行動する人は多い。
しかしそれがたとえ成功しても、神の口から吐き出されるということなのだろう。


本来、神に求めるべき満足を人に求め始めると、人の歓心を引くことや、体制を大きくしたり、組織を動かすダイナミズムに酔うことだけに充足を求めるようになってしまうのかも。



でもそれが17節ということか。


実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。


実は何もないから、不安で互いににしがみついている状態なのかもしれない。


どこに軸を置いているのか?
何を動機として行動しているか?


いつも気になる点だが、これを判別するのは行いではなく、聖書で言う「御霊の実」なのだろう。