教会には貧しい人が身を寄せることもあります。
先日もお金を貸している場面を目にしました。
故郷に帰りたいとのことで、交通費など数万円を貸し、借用書を書いてもらっていました。
よく見る光景なのですが、一緒にいた人が「・・・返してもらえなさそうだなぁ。」と呟きました。
初対面の見ず知らずの男性。実家に帰るかどうかもわかりません。
そこで、お金の貸し借りのお話しになりました。
箴言19:17
自分も教会で3回ほどお金を貸したことがあります。
1万円が1回。5千円が1回。2万円が1回。
いづれも10年以上前の話。自分の生活も困窮していましたが、貸したキッカケは以下の聖句。
寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。
主がその善行に報いてくださる。
箴言19章17節
その人からお金が返ってこなくとも、神は報いて下さるという点で意見が一致しました。
事実、その牧師さんもよく裏切られるのですが、最終的には祝福されているかなという印象を受けます。
お人よし?
借金を申し入れて来た人の中には、どう考えても嘘だろうという方もいました。2万円を貸した時のことです。
道を歩いていると、同じ教会のAさんがいたので、声をかけるとお金を貸してほしいと頼まれた。
風邪をこじらせて医者にかかりたいのだが、生活が困窮していてお金がない。
健康保険にも入っていないのですごくお金がかかるという。
そこで2万円を貸してあげたのだが、後で腑に落ちない点が。
風邪をひいているはずのAさんと会った場所は、よく考えるとタバコの自動販売機の前。
Aさんはタバコを買おうとしていた。生活費や風邪の件はどうなのか?
帰ってから奥さんにAさんにお金を貸した話しをすると、「お人よしだ」呆れられた。
あの人は嘘をつく傾向がある。貸す必要が本当にあったのかと。
確かに騙されたかもしれないが、10年経った今は必ずしも「お人よし」という表現は当てはまらないように感じます。
5年以上の長期スパンで見れば、騙されたかも思うケースで、相手が祝福されたのを見たことがありません。
ローマ書12章にあるような、報いは神がするという記述は、年齢を重ねると現実味を帯びて感じられます。実際そういう状況を目にすることが増えてきたからです。
善をもって悪に報いる行為が、相手の頭に燃える炭火を積むと聖書にありますが、そんな状況を目にする機会が、少なからずあります。
だから騙そうとする相手に貸すことも、必ずしもお人よしとも言い切れないのかもしれません。
こちらが被害を受けたようにも見える時もありますが、長期スパンでこちらは祝福され、相手は罪の「刈り取り」をしているように見えるのです。
この点に関しても牧師さんと意見が一致しました。
■神の憐み
貸して本当によかったと思うケースもあります。
1万円を貸した時のことです。
ある時、教会の階段を歩いていると、叫び声が聞こえました。見に行くと、牧師室でYさんが叫んでいました。
「何をしているのか」と聞くと、
「祈っている」と言います。
「なんでそんなに大声なのか」と聞くと、
「お腹が痛くて病院に行きたい」という。
しかしお金がないから祈っているのだと言うのです。
さらに無茶なことを言い出しました。
「タクシーで病院に行きたいのだが、タクシー代も病院代もない。だから献金を返してほしいから、〇〇牧師に連絡して欲しい。」
献金を返してほしいなど聞いたことがない。
「いくら必要なのか?」と聞くと「1万円」だという。
ふと「箴言19:17」が浮かびました。
「1万円なら今持っているから貸しましょうか。」と言うと、気持ちが落ち着いたのか静かになった。
たぶん返してもらえない・・・と感じつつ、1万円を渡しました。
このYさん(女性)は生い立ちも不遇で、言動も粗暴でトラブルも多かった。
前にいた教会の牧師さんが手に負いかねて、その教会へ連れて来たという経緯がありました。
一度若い頃の写真を見せてもらったことがあるが、「アイドルか?」と思うほどの美人。
言われなければYさんとわからないほど。そのギャップから苦労が感じられて、二重にショックでした。
しかし3か月後・・・
Yさんが天に召されたという連絡が。
まだ40代。
異臭がすると周囲の住民から連絡が入り、警察と不動産屋で鍵を開けたところ、部屋で孤独死していたといいます。
死後一週間ほど経過していたらしい。
身寄りがないため、教会のメンバーで部屋の片づけに行ったが、ドアを開けると、床上30センチほどはゴミで覆われていました。
ただ、「ゴミ」と言っても本当のゴミではなく、未開封の化粧品やシャンプー、衣類などが大量にありました。
「幸せになりたい」と願い買い続けた様子が伝わって来ました。
化粧品をゴミ袋に詰めながら、あの時お金を貸してよかったのだと思いました。
貸さずにやり過ごしていたら、良心の呵責で一生後悔したことでしょう。
お金は戻ってきませんでしたが、貸したことは、自分にとっても「憐み」でした。
神は必要な時に語りかけて下さると、身を以て感じた出来事でもありました。