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教会疲れ

あまり教会に行きたくないと思っていた時期に、三浦綾子さんの「道ありき」を読んだのですが、思わずうなってしまった箇所があったので引用しておきます。

骨太な媚びない文章が、ある意味で真実をついているかもしれません。


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よく、教会という所はこの世の最も清らかな人達が集まっている所だと錯覚して、教会に来る人もあるが、教会は決して美しい人の集まりではない。教会は神の前にも、人の前にも頭を上げ得ない罪人だと、自分を思った人達が集まっている所のはずなのだ。だから、人に何かを求めるのではなく、神に求めていかなければ、人々は絶望するかもしれない。その点、わたしはまず誰よりも自分に絶望していたから、その後今に至るまで、他の人のことで、教会を離れたいと思わずにすんで来た。

これは最初に、わたしの悪口を言った何人かが、教会にいてくれたお陰でもある。

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求道者である三浦さんが教会に行っていたのですが、教会員の中に悪口を言いふらす人たちもいたようです。しかし、そのおかげで教会を離れたいと思ったことはなかったとあります。

これを読んでいると、こういうことはどこにでも、どの時代にもあるのだなと思います。

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しかし、
『神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。』
と、聖書にもあるので、絶望はしません。

初めて会った牧師に、「教会はただの人間のサロンとは違う。」と言われのですが、長い年月の間にうっかりすると関心は、『周囲にどんな人がいるか』になっていたかもしれません。
『神の前にどのように歩むか。』に焦点を戻し、原点を忘れないようにしたいところです。