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人生終了? ヨセフの話し

10月15日からのヘッダーです。



英語で書いてあるのは聖書の言葉。


創世記39章23節

監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。
それは主(神)が彼(ヨセフ)と共におられ、
彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。


そもそもなぜヨセフは監獄にいるのか? 監獄の中でも全て成功という聖句。

殺人未遂、人身売買、冤罪に次々と見舞われ、さんざんな人生が展開します。


聖書の中でも、思い入れのある箇所です。
休職状態から職場に復帰する際、最後に背中を押してくれたのがこの箇所でした。


ヨセフの夢


11番目の子供として生まれたヨセフは、親から特別に可愛がられていましたが、そのため兄たちから妬みを買っていました。


ある日ヨセフは夢を見ます。
聖書で「夢」は神からの語り掛けだったりします。



・一つ目は、ヨセフとその兄弟たちが畑で収穫を束ねていると、ヨセフの束が立ち上がり、兄弟たちの束はヨセフの束に向かってお辞儀をした・・・という夢。

・二つ目は、ヨセフと太陽と月と十一の星があった。すると、太陽と月と十一の星がヨセフに向かってひれ伏した・・・という夢。



いかにも兄たち(十一の星)や両親(太陽と月)が、ヨセフのもとにひれ伏すことを連想させる夢。これをそのまま家族に話して、さらに反感を買ってしまいます。



殺人未遂


兄たちはついにヨセフを殺そうと企み、荒野で深い穴に投げ込みます。ちょうどそこへエジプトの隊商が通り過ぎました。

そこで、殺すよりも売ってしまおうということになり、ヨセフは奴隷としてエジプトに売られて行きました。


人生終了。










・・・という感じですが、ここから神の計画が発動します。


ヨセフはエジプト王朝の臣下であるポティファルという人の家に買い取られ、"幸運な人となり" 暮らしていたと記述されています。
『彼の主人は、主(神)が彼(ヨセフ)とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させて下さるのを見た。』ともあります。


ここを見た時、『どこにいるか?』よりも、『神がともにいるかどうか?』が肝心のような印象を受けました。


『主が共におられたので・・・』ヨセフのすることはなんでもうまくいったようです。
そこで、主人ポティファルは家と全財産の管理を、奴隷であるはずのヨセフに任せ、この家は益々栄えていきます。



冤罪


ところが、また妨害が入ります。主人ポティファルの奥さんが、ヨセフを誘惑します。

ヨセフがそれを断ると、奥さんは「ヨセフが私を襲おうとした。」と彼に濡れ衣を着せ、今度は冤罪で投獄されます。


再び人生終了。







しかし、『主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。』という文が続く。
今度は囚人なのになぜか、刑務所の管理を任されます。


主が彼とともにおられ、彼がなにをしても、主がそれを成功させてくださった』という刑務所での生活。

どんな場所にいても、神がヨセフを支え続けます。


刑務所を管理していたヨセフのもとに二人の囚人がやってきて、再び『夢』がカギとなる出来事が起きます。
この囚人二人が夢を見ますが、解き明かす人がおらずイラついていました。


ヨセフは「解き明かしは神のなさること。ちょっと話してみて下さい。」と、聞き出します。


そこで解き明かしです。

「一人は処刑され、一人は釈放される。」とヨセフは告げ、その通りとなります。


一人が釈放されるとき、ヨセフは自分の今までのことを話し、無実なことを王に話して欲しいと告げます。
・・・が、この人は釈放され王の献酌官長の地位に戻ったにも関わらず、ヨセフのことなどすっかり忘れてしまいました。人はそんなものかもしれません。



再びヨセフの夢


2年後。今度は王が夢を見ます。
王は解き明かしを求めましたが、誰もできません。


この時、釈放された献酌官長は、ようやくヨセフのことを思い出します。
「へブル人の若者で夢の解き明かしをした者がいる。」と、王にヨセフを推薦します。
結局、2年間も刑務所で放置されていたヨセフは、王の夢の解き明かしをします。


王は驚き、
『あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。』と言い出しました。
このことでヨセフはついにエジプトの宰相にまでなります。

その後、この地域に激しい飢饉が訪れますが、エジプトはヨセフの夢の解き明かしのお陰でこの飢饉のための食糧備蓄が完了していました。

しかし周辺国は準備ができておらず、ヨセフを奴隷に売った兄弟たちが助けを求めてこの国に来ます。

ヨセフは家族と再会し、ついに子どもの頃に見た二つの夢のような状況が訪れます。





今までのヨセフの人生を振り返ると・・・

兄弟に殺されかける。(殺人未遂)

奴隷としてエジプトへ。(人身売買)

奴隷として働かされる。(奴隷生活)

無実の罪で投獄される。(冤罪)



『人生終わった。』と思う時でも、たぶんヨセフの人生よりはましかもしれません。

こんな人生の中でも『主が彼と共におられ』・・・、



ポティファルの家を管理

刑務所を管理

エジプトの王の家と国家全体を管理



・・・と、逆に管理する容積はどんどん増し加えられていきました。
聞いていて励まされました。



止められるのは

このメッセージを語った東北の牧師さんは、最後にこう付け加えた。


「殺そうとしても、奴隷に売り払っても、刑務所に叩き込んでも、神の計画は誰も止めることはできない。もし止めることができる人がいるとすれば、それはただヨセフ本人だけでしょう。」


この話の中で繰り返される『主がヨセフとともにおられたので・・・』という言い回しを見てると、神はあくまでも見捨てないようです。


こんな主が共におられる人生を歩んでみたい。

『主がともにおられる』なら、もしかすると自分もイケるのではないか?という単純な発想で職場に復帰。


過去に何度も復帰に失敗したけれど、この時だけはなぜかうまくいき、現在に至ります。


そのため思い入れのある箇所で、今も時折このヨセフの話しを思い出します。。