先日、教会で子供たちに「ヒゼキヤ王」の話しをした。
この王様の話しはなかなか好きだ。
非常にまっすぐな王様であるが、他の聖書箇所によくあるように、試練に直面している。
強国・アッシリアの脅しに負けじと抵抗している。
いつの時代も変わらないのだなと思う。
人間くさいところもあって、なんとかこの状況を切り抜けようとエジプトに助けを求めたりもしたが、最終的には神の前に遜り、預言者・イザヤを通して神に助けを求める。
ヒゼキヤ王のお話しで、好きな箇所が2か所ある。
一つ目は以下の箇所。
第二列王記18章6~7節の箇所。
彼は【主】に堅くすがって離れることなく、【主】がモーセに命じられた命令を守った。
【主】は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。
【主】は彼とともにおられた。
このフレーズを見ると、ヨセフを思い出す。
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頭の良さでもなく、強さでもなく、処世術でもなく、「主がともにおられるか」が人生を分ける。
確かに現実は能力以外のものが結果に影響する側面があって、「神から見てどうか」は人生に大きく影響しているように感じる。
それを「人の性質」の観点から言い表すならば「誠実」が一番近いかもしれない。「神への誠実さ」と言ったところか。
普段社会で働いていると、スキルアップとか組織の運営とか、会社の方向性とかを最優先で意識してしまっていることもあると思う。
しかしそれは第一の要素ではないかもしれないと思い起こさせてくれた。
そしてヒゼキヤ王の話しで、二つ目に好きな箇所は以下の節。
第二列王記19章32~34節
それゆえ、アッシリヤの王について、【主】はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。
彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。──【主】の御告げだ──
わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」
わたしのしもべダビデのために
ヒゼキヤ王に対する、預言者イザヤから伝えられた神の言葉。
「ヒゼキヤのため」 ではなかった。
ダビデはヒゼキヤよりも200年も前の王だ。
200年前の誠実さを忘れない。だからあなたの国を救う。
それなら子孫が守られるかどうかは、自分の肩にもかかっているということになる。
神への誠実さに未来への貯えのような一面があるとするならば、責任も感じるし、楽しみでもあるというものだ。