子どもが大きくなってきた。
受け答えがまるで小学校高学年のように見えることもある。予想以上に成長が早い。
その年齢層に憧れているのか、カッコつけた態度も増えて来た。一人称は「オレ」で、ちょっと斜に構えている時も。
どこで覚えたのだろう?
ヒーローもののお兄さんだろうか?
今までは幼児向けの内容での教会学校だったが、急に様子が変わって来て内容が合わなくなってきたような気がする。
だから息子が憧れている世代、「少年時代のイエス」のお話しをすることにした。
イエスの子ども時代については、ルカの福音書にしか出ていない。12歳の時の話しが少し出ているだけである。
イエス様は12歳の時にお父さん、お母さんとルサレムに向かって旅をした。
過ぎ越しの祭りに出るためです。親戚の人たちや、近所の人たちみんなと一緒に過越しの祭りに行きました。
過越の祭りはイスラエルの3大お祭りの一つです。
神がエジプトで裁きに臨んだ時、ユダヤ人の家だけ素通り(過越し)てくれたことを記念している。
お祭りの後、みんなで帰路についたのですが、イエスは神殿に残っていました。
一日歩いた後、両親がイエスがいないことに気づき、エルサレムに引き返しながらイエスを探し始めました。
12歳の子どもがいない。
すごく心配しだろうことは想像に難くない。
「イエスはどうしたのか?」
「誘拐されたのか?」
「事件や事故ではないか?」
「万が一死んだりしたら」
親なら誰でも心配です。
3日後、エルサレムに到着すると、少年のイエスは神殿の真ん中で、聖書学者たちの真ん中に座って、聖書の話しを聞いたり質問したりしていました。
博学な聖書学者たちの中に子どもが一人。イエスは学者たちと聖書の話しをしていた。
聞いている人たちはみんな、少年のイエスの賢い受け答えを聞いてビックリしていました。
「この子は大人や学者よりも神のことを良く知っている。」
「子どもなのに、一体どうやってこんな知識を身に着けたのだろう。」
そんな雰囲気が伝わってくる場面です。
それを見イエスの母は
「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
と、言いました。これはたぶん怒っていたのだと思う。子どもが神殿に一人でお泊まりしていたら普通は怒られる。
それに対するイエスの答えは・・・。
「どうしてわたしを探していたのですか? わたしが父の家にいるのが当たり前だと知らなかったのですか?」
というもの。
お父さんもお母さんも「は?」という感じだったかもしれません。
でもここで少年イエスが「父」と言っているのは、お父さんのヨセフのことではなくて、天の父である神さまのこと。
少年のイエスは「天の神様」が自分のお父さんだとわかっていて、だから神殿にいた。
①神殿は神の家。
↓
②神の家ということは、お父さんの家。
↓
③お父さんの家ということは自分の家。
↓
④だからここにいて当たり前。
・・・という論理です。
でもよく思い出すとその通りで、イエスが生まれる前、お母さんのマリヤの前に天使ガブリエルが来て、
「おめでとう。あなたのおなかに神さまが子どもを宿しますよ。」と伝えた。その神さまの子がイエス。
だから「どうしてわたしを探していたのですか?」とイエスが言ったのは、「お母さん天使に言われたこと忘れた?」と、言いたかったのかもしれない。
結局その後、イエスはお父さんのヨセフ、お母さんのマリヤと一緒に家に帰り、両親に仕えたと書かれている。
神の子で、大人の学者も驚くくらいのすごい神の知恵があって、両親を陵駕している部分もあっただろうけど、両親に従い家に帰って仕えた。
現代であれば、知識が増せば周囲をバカにする人もいるだろうけれど、そうはしなかったようだ。
そうしないのが「神の知恵」だから、実際その通りに身を以て示した。
そんな生き方をしながら成長していく姿を、聖書にはこう書いてある。
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
ヨセフお父さんの言うことを聞いていたというのもあるけれど、実際は天のお父さんの言うことも聞いていて、それでヨセフやマリアに仕えていた一面もあったかもしれない。
それゆえ天の父なる神に喜ばれ、「神の恵みがその上にあった。」のだろう。
さらに「神の恵みがある」ことを周囲の人が感じて愛された。
①神の知恵があり、実際にその通りに暮らしていた
↓
②神が喜んで共にいてくれる
↓
③結果、みんなに愛される
本来あるべき「よいサイクル」。
しかし人には③だけ求める傾向ある気がする。「インスタ映え」とかもその現れかもしれない。
SNS自体は悪いものではないだろうが、①②がない状態で③を求めるなら自分で盛ったり、ハッタリで大きく見せるしかない。
そういえば偽りのセレブ生活を演出し続けて借金まみれになった人の記事を読んだことがあるが、エスカレートすれば行きつくところこういうことだろうか。
エスカレートすれば誰から見ても「的はずれ」な行動だが、そういう意味では広い意味で、③だけ求めることも「罪」なのかもしれない。
iroiro-memo.hatenablog.com
人に大きく見せたい傾向は、今も昔も変わらないかもしれないが、自戒を込めて気を付けなければと思う。
創世記に出てくる奴隷から宰相に出世したヨセフにも同じ「良いサイクル」を見て取れる。
ひどい仕打ちを受けながらも忠実に奴隷の主人に仕え、牢屋の中では監守に仕えた。
神はそんなヨセフと共にいて、いつも祝福された。
そんな風になるのは難しいけれど、このイエス様は求める人と共にいてくれる。
できればそんな少年になってほしいのだが、独立心旺盛なウチの息子は、この「お兄さん」の話しから何か感じてくれただろうか?
「お兄さん」に憧れつつも、かわいいキャラクターの子ども向け賛美動画を見せると、ウキウキしてしまっている様子を見るとまだまだ子どもで、少しほっとする。