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人身事故の記録 【信仰視点】

初期対応はよかったのではないか


何かあっても保険で払えるよう警察に調書も取ってもらった。
こちらの過失でないこともわかってきた。


しかし万が一翌日にでも相手が死んだ場合、『加害者』には違いない。
その場合、心情的には一生逃れることのできない罪になるだろう。


教会で「罪」という言葉はよく聞くけれど、罪ということをとてもリアルに感じた。



■周囲に相談

なんとなく相手のご両親にお詫びに行ったほうがいいような気もした。
同じ町内に自分の子供をはねた人がいるというのも、微妙な感じがするだろう。


こういう場合、一般的にどうすべきか?

お詫びに行けば、かえって問題を蒸し返す可能性もある。


周囲に相談してみたが、相手のいることなのでわからない様子。
ただ、おそらく警察を呼んだ対応は間違っておらず、こちらに過失がないなら、もうこれ以上何もする必要はないのではないか?何かあったら法に沿って対応してもいいのではないか?という無難なアドバイスをいただいた。



■促し

こういう時、正解があるのかわからないが、祈ってみました。一応クリスチャンですから。

"神に喜ばれることだけに思いを集中すること"
"周囲の雑音には耳を貸さず、神に喜ばれると思う方を選べ"

・・・という促しを祈りの中で感じた。



謝りに行くことにした。



家にあった菓子折りを持って、妻と自転車で訪問。


玄関に対応に出てきたのは、大学生くらいの若者。お兄さんだという。


「あいつのことですよね?昨日親に怒られてましたよ。"お前が悪い"って。」


という感じでこちらの予想よりも軽い感じの応対だった。両親はちょうど外出したところだという。

何かあったらすぐに連絡下さいと、会社の連絡先メモも入れた菓子折を渡し、ご両親によろしくと伝え家に帰った。


夕方に電話が来た。中学生のお母さん。
「どうもわざわざすみません。大丈夫だと思います。」と、こちらも明るい感じだった。
もしかして自分より年下かな?という印象の元気な感じの人だったが、お互い良い印象で終わることができたと思う。


行ってよかった。
行かなければ2週間くらい疑心暗鬼の中で過ごしたかもしれない。
次に町内会で会うことがあっても、互いに気まずくなることもないだろう。


神の促しをハッキリ感じるということはさほど多くない。でもこういう追い詰められた時はなぜかハッキリと感じる。震災の時もそうだった。そのことに集中するせいかもしれない。普段からそうしとけという話しかもしれませんが。


結果問題なかったが、「どうなるかわからない。」時間を体験させてもらった。
ギリギリの状況下では、現実を他人に肩代わりしてもらうことはできないと、改めて感じた。
交流で気を紛らわせたり、仲間の存在が励みになるかもしれないが、人は答えを出せない。


本当に追い詰められた時に、現実を共に背負ってくれる存在は神しかいないと再認識した。
逆に言えば神はいつも共にあると今回感じることができた。


これからもそうだとすれば、それは幸いなことだと思う。