民数記でモーセが民を引き連れて、荒野を彷徨っている時の話しである。
民衆が「水がほしい」と不平不満を言って逆らい始めた。不平不満は今回だけでなく、何度もあったことだ。
ここでモーセは天幕に行って主にうかがいをたてた。
主の栄光が現れて、会衆の前で岩に命じれば岩は水を出すと告げられた。
モーセは杖で2回岩を打つと、そこから水が流れ出た。
人々の不満というのはモーセの時代だけの話しではなく、今もあることだ。
今年は自治会の役員当番が回ってきたが、不平不満がいろいろ来る。
そのせいかモーセの状況が自分と重なって見えた。
自分はそんな時、どうしているだろう?と考えた。
「相手の話しをよく聞こう。」 とか
「親切に対応しよう。」 とか
「誰かに相談しよう。」 とか、条件反射的に対応していると思う。
こうして文字にしてみると、神ではなく人に注目していると思う。聖書を読んではいるけれど、いざその状況に自分がなると、同じようには対応していない。
モーセのようにすぐに主にうかがいをたててはいなさそうだ。
そしてもしも「会衆の前で岩に命じる。」という導きを感じたとしたら・・・・・、
自分はどうするだろうか?
水が出なかった時の恥を恐れて、水を手に入れる策を一生懸命考えてしまいそうだ。
誰か水を持っている人はいないか?
それをみんなでわけてみたらどうか?
水のありそうな方角はどちらだろうか?
自分の「合理的」な判断が神のわざを妨げていることもあるのかもしれない。
そもそも主の促しを聞き分けられるような距離感で暮らしてるか?というのもあるけど。
もしも神からの促しがあった時に、ちゃんと実行できるか? と振り返る機会となった。