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十字架を負って

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。


クリスチャンになったばかりの頃、聖書のこの箇所が突き刺さった。

正直、なかなかキツイ箇所だ・・・と思いつつも、慰められる箇所でもあった。

それは

「自分の十字架を負って・・・」というくだり。


大きな問題を抱えて困難な毎日を送っていた20年前。

この「自分の十字架を背負って・・・」という箇所は救いでもあった。


それは、「自分の十字架を負うのが普通であって、かえってあるべき姿なのだ」・・・という意味合いを感じたため。


つまり
「十字架は負うのがデフォルト」

と、語りかけてくる(ような気がする)この箇所は、もしかすると自分は負け組などではなく、かえって正しく歩んでいるのではないか・・・と、かなり前向きなニュアンスを与えてくれた。


世間一般からドロップアウトしているように感じていた自分の歩みを、肯定して受け入れてくれたわけです。



自分の人生を思う存分謳歌しようとしていた若い頃。

自分のいのちを自分のものとしようとして、不本意ながらそれを失った。


しかしこの箇所の通り暮らし始めると、かえっていろんなものが与えられ始めて、道が開けていった。神はそのような存在かもしれないと感じた出来事です。

「好き勝手に謳歌するのが理想」とか、「カッコいい夢を実現するのが理想」
みたいな、若い頃の価値観に根拠はあったのだろうか? 


周囲を見渡せば、十字架を負っている人が増えてきているような気がするこの頃。


けれども自分の十字架を負うことは、別に恥ずべきことではない。

そしてそれは不幸で終わるとは限らない。
・・・と、今は思う。