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クリスマスの話し

クリスマスはサンタの日。




ではなくて、イエス・キリストの誕生日です。


実際のところ、キリストの誕生日はこの日ではないとうい説もあります。


せっかくの聖夜のためにイエス・キリストについて少々書いてみます。


キリスト教への誤解?


自分は子どもの頃、外人宣教師が道端で紙芝居をしているのを見て知りましたが、イエス・キリストの話しを、こんな感じでとらえてました。


1.キリストという立派な人がいた。

2.実は、神だった。

3.悪い奴にやっつけられたが、いい人だから反撃しなかった。

4.殺されてしまったが、神だから生き返った。

5.天に帰ってめでたし。


ガンジー(非暴力主義者)+ スーパーマン(甦り) + かぐや姫(昇天)
みたいなお話しだと思っていました。


自分が頭の悪い子だったのか、外人宣教師の日本語力が足りなかったのか。


しかしこのイメージだと、一番大事な『福音』の要素が抜け落ちているのです。



ある牧師さんが寓話で福音を語ってくれたのですが、分かりやすいと思ったので、それを掲載しておきます。



【福音】 ある王様の話し

昔々、あるところに立派な王様がいました。



人々からも慕われていて、王様も国民のことを大切にしていました。

ある時、王様は国民のために泉の工事をします。

国民は毎日きれいな水を飲めるようになり、大変喜ばれました。

さらにこの泉を美しい庭園にして、国民の宝としました。

この庭園がいつまでも守られるよう、王様は法律を作りました。


『この泉を汚す者は、誰でも目をえぐられなければならない。』


厳しい法律ですが、大事な水源。みんなこの庭園を大切にしていました。



ところがある日、この泉がめちゃくちゃに荒らされていました。

きれいな水はもう飲めません。国中にショックと落胆が拡がりました。


王は激怒し、召使たちに犯人を捜し出すよう命じます。

召使たちは国中を必死で犯人捜しをしますが、見つかりません。



御触れ書きを出し、国民総出の捜索。

召使たちも必死ですが、どうしても犯人が見つかりません。

困り果てた召使い達は王様に申し出て、もう一度王宮から徹底的に調査を始めました。


数日後、召使から犯人が見つかったと報告が。


どんな奴かと王様が待ち受けていると、召使が連れてきたのはなんと我が子。幼い王子でした。


荒らしてはいけないことはわかっていました。
でも遊んでみたい。
幼い王子はガマンできず、やってしまいました。


泉を破壊した犯人が王子だとわかると、国民にも動揺が走りました。


困ったのは王様。
御触れ書きを出していました。
判決を出さなければなりません。


自分が作った法律。
国家総出の捜索。
きれいな水も飲めなくなり、国全体を混乱させた。


王様は悩みました。


法律を変えてしまえばどうか。
勝手に都合よく法律を変えるのはは王として失格。
そんな王は誰も信用しない。


「子供だから」
それも自分で作った法律を破ることになる。
"自分の子供だけ特別扱いした。"と言われても仕方ない。


かと言って、幼い王子の目をえぐるなどとてもできない。


この結末をどうすればいいのか?
悩みながら判決の日を迎えました。


判決の朝。
人々が王宮の庭に集まってきました。


王様はいったいどんな判決を出すのか?
みんな不安な表情です。


そして王様が姿を現しました。


その姿を見て、群衆はギョッとします。
しかし、同時に "この人が王なら大丈夫だ。" と安堵します。


王様の頭にはグルグル巻きの包帯。


目の部分からは血が滲んでいます。



自分で作った法律を都合よくねじ曲げることなく
王子を救う方法


王様はその決断をしたのでした。


■福音


これはたとえ話ですが、ここに出てくる王様は神で、王子は人間です。

神が創った人間は罪を繰り返し、神の掟を破ります。

神は厳しい裁きをしなくてはならなくなりました。

しかし、とてもそんなことはできません。


そこで王子の目をえぐらずにすむただ一つの方法を選びます。

身代わりとして自らの目をえぐるという選択。

神が身代わりとして、自らを裁くという選択。


イエス・キリストが十字架につけられたという出来事には、『身代わり』の意味があり、ここが福音の大事な部分と思います。


福音とは『よい知らせ』の意味であって、王子の目がえぐられずに助かったように、神が身代わりとなったので、私たちが裁きから免れるという知らせ。



ガンジー + スーパーマン + かぐや姫   ということではありません。


自分みたいな変な思い違いをしてる人はいないと思いますが、念のため。